荒井津守より

 2022710日 マタイ21:28-32  使信「差別からの解放」

 

 おはようございます。今日、7月の第二主日は「部落解放・祈りの日」ですが、これは、1975年の7月に、日本基督教団で、部落解放の働きをしていこう、と正式に決めたことに由来します。

 

 そして、2000年の712日には「日本基督教団 部落解放方針」が制定されました。それは、およそ、このようなことです。

 

わたしたちキリスト者は、人間は皆、イエス・キリストを通して神によって愛されている、と考えます。人間は、皆、神によって創造され、神の愛によって、皆、尊厳を与えられており、かけがえのないものです。部落差別をすれば人間の平等と尊厳を否定してしまうことになります。そして、それは、神が人間を創造した御心を否定することでもあり、神によって創造された人間への冒涜でもあります。

 

 部落差別は歴史や政治や社会的な問題であると同時に、様々な差別や抑圧を産み出す人間の心、つまり、わたしたちの罪に深くかかわる信仰の問題でもあります。教会においても、社会においても、今なお、結婚差別や就職差別があり、差別発言、差別行動がありますが、わたしたちはこの解決につとめます・・・このような部落解放方針が日本基督教団には制定されています。

 

 わたしが通っていた小学校の前には、差別されている部落、被差別部落がありました。小学生だったわたしにはそれがわかりませんでしたが、貧しい地域であることや、大人たちはその地域を何か特別なまなざしで見ていることをなんとなく感じていました。

 

 中学校は、あとで知ったことですが、校区の中に被差別部落が三つありました。大学に入ってから、それらの地域が被差別部落であることを知ります。また、そこ出身の人びとが、結婚や就職などで差別を受けていたことを知ります。

 

 大学時代には、在日韓国朝鮮人との出会いもありました。この人びとも、就職、結婚などにおいて差別を受け、日本人の言葉や行動によって差別されていることを知りました。また、役所で、外国人登録というものをすることを強いられ、その際には、指紋を押させられるという耐えがたい屈辱を余儀なくされていました。

 

 また、日雇い労働者への差別があることも知りました。日雇い労働者の多くは、厳しい肉体労働をしているのですが、日雇いですから、収入は保証されず、不景気や雇用者の都合や労働者の体調で仕事にありつけないときは、すぐに、衣食住を得ることができなくなってしまいます。そういう背景があるのに、あの人たちはなまけものであるとか、定職につかないとか、昼間からぶらぶらしているなどと言われてしまいます。

 

 女性も差別されています。もう少し正確に言うと、男性が男性とみなす者以外の人びとが差別されています。つまり、女性だけでなく、トランスジェンダーの人びとや、自分を男女両性や中性と認識している人びと、同性愛の人びと、両性愛の人びとも差別されています。

 

 身体障碍者、精神障碍者と呼ばれる人びとも差別されています。大学時代に視覚障碍者の先輩がいましたが、わたしは、この方から、目が見える人は目が見えるというだけですでに目の見えない人を差別している、と教えられました。

 

これは、差別とは、わたしたちの気持ちが誰かを差別しているというだけでなく、社会の仕組みの中に差別が入り込んでいるということです。たとえば、当時は、飲食店には点字メニューというものがあまりありませんでした。これは、視覚障碍者を最初から客として受け入れようとしていない社会の差別のあらわれなのです。

 

 わたしは、学生時代、こうした差別を知るようになり、こうした差別はなくさなくてはならない、こうした差別に反対しなくてはならない、平等な社会をもたらさなくてはならない、と強く感じるようになりました。そして、差別の勉強会や集会、講演会などに足を運んだり、関連する本を読んだり、日雇い労働者の町の炊き出しに参加したりするようになりました。

 

また、差別や抑圧から人びとが解放されることを求める、「解放の神学」というキリスト教神学に出会い、それをより深く学ぶために、解放の神学の発祥地のひとつであるペルーなどの中南米諸国を訪ねる経験を与えられました。

 

 差別に反対する際に大事なことは、わたしは差別をしない、していない、ということ以前に、わたしは差別をしてしまっている、という認識だと思います。そして、わたしは差別をしてしまっている、という認識は、わたしは罪人である、というキリスト者の告白と同じことだと思います。

 

 キリスト者の罪の告白とは、わたしは神から離れてしまっている、わたしは神の方を向いていない、ということと、わたしは隣人から離れてしまっている、わたしは隣人の方を向いていない、自分のことばかりを考えている、ということだと思いますが、差別とは、わたしは隣人の方を向かず、むしろ、隣人を傷つけている、ということではないでしょうか。

 

 差別には、社会の枠組み、社会の構造と、わたしたちの心の両方が関わっていると思います。社会の枠組みとして、男性優先社会で男性以外の人びとが差別されている、障害者でない人びとが優先される社会で障害を持っている人びとが差別されている、社会の枠組みの中で外国人、とくに白人以外の外国人が差別されている、そういう社会の枠組みによる差別があります。

 

 これは、わたしが、わたしは誰々さんが外国人であろうと差別していないと思っても、わたしは誰々さんを差別する社会の枠組みを作ってしまっている一人であるということです。わたしたちにはそういう自覚は必要だと思います。

 

 もうひとつは、やはり、わたしたちの心も、人を差別しているということです。やはり、わたしたちは、誰々さんは外国人だからとか、障害者だからとか、いった差別の心を秘めてしまっているのではないでしょうか。

 

 それは、むろん、良いことではありませんが、わたしは、いますぐ差別の心をなくさなければならない、ということよりも、いますぐ自分の差別の心に気づかなければならないと思います。先ほども申し上げましたが、差別からの解放の出発点は、わたしは差別なんてしていません、ということではなく、わたしは差別をしてしまっているということです。

 

 差別からの解放とは、世の中はあの人びとを差別している、それはけしからん、この人びとは差別をしている悪い人だ、あの人びとは差別されている気の毒な人びとだ、けれども、わたしはあの人びとを差別していません、ということではなく、わたしはあの人びとを差別してしまっている、と認識し、隣人への罪を告白し、どうじに、すべての人間に尊厳を与えられた神の御心への罪を告白し、わたしたちが自分の差別の心から解放されることなのです。

 

 残念ながら、近頃は、差別には反対しているふりをするが、自分の差別は認めず、むしろ、自分は差別されている人びとの味方である、という姿勢の人が増えているように思います。キリスト教の出版においても、そういうことが現われていますが、それを認める人は多くはないようです。

 

 さて、今日の聖書には、ふたつのタイプの人びとが登場します。ひとつは、イエスのたとえ話の兄のような人びとです。兄はぶどう園で働くように親から言われますが、嫌だと拒否します。しかし、あとで、考え直してぶどう園で働います。弟はぶどう園で働くように言われて「はい、わかりました」と言いますが、じっさいには行きませんでした。

 

 そして、イエスは、この兄を徴税人や娼婦と重ねます。そして、弟を祭司長や長老と重ねます。

 

 徴税人や娼婦とは、あの人たちは神に背く罪人だとその社会で差別されていた人びとです。祭司長や長老はその差別を率先して行っていた人々でしょう。

 

 徴税人や娼婦は、一見神から遠いように思われます。しかし、じつは、世の中から斥けられ、世の中の人々を頼りにできない徴税人や娼婦は、信仰が深いとか浅いとか言うよりも、ただ、神に任せるしかなかったのではないでしょうか。頼りにできるものが何もなく、かろうじて、神にすがるしかなかったのではないでしょうか。神しか味方がいなかったのではないでしょうか。

 

 祭司長や長老は、一見信仰深いように思われます。しかし、じつは、自分たちは正しい、あの人びとは正しくないという傲慢に満ちていたのではないでしょうか。自分たちは正しい、自分たちは何でもできる、と言って、自分の力を誇り、はんたいに、神に委ねることがなかったのではないでしょうか。

 そうしますと、イエスは、差別されている人の方が神の近くにいる、と考えていたのでしょう。イエスはこう言っています。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

 

 徴税人や娼婦のような差別されている人びとの苦しみを神は良く知っておられ、その差別から解放されることを神は願っておられる、とイエスは感じていたのではないでしょうか。

 

 差別からの解放というこの神の御心に向けて、わたしたちにはどのようなことができるでしょうか。ひとつは、繰り返しになりますが、わたしたちが自分の差別の心を認めることだと思います。そして、差別によって苦しんでいる人びとの状況を少しでもわかろうとすることだと思います。それは、かわいそうに、という傲慢のことではなく、わたしはこの人びとを差別してしまっている、という反省のことではないでしょうか。

 

 イエス、そして、神は、わたしたちが人を差別してしまっていることをよくご存じです。同時に、差別されている人びとの苦しみもよくご存じです。

 わたしたちの中には、差別する心もありますが、わたしたちも、ある面では、差別されていることもあるでしょう。たとえば、女性として、たとえば、高齢者として、あるいは、他の面で差別されていることもあるでしょう。わたしたちのその苦しみも神はよくご存じです。

 

 イエス、そして、神は、差別することからも、差別されていることからも、わたしたちを解放しようとしています。わたしたちが差別すること、差別されることから解放される、この神の御心にあわせて、わたしたちは祈ることができるでしょうか。

 

 創世記1章にこうあります。「神は御自分にかたどって人を創造された」。

 

 わたしたち人間は、そして、わたしたちが差別する人びとは、神にかたどって創造されているのです。神にかたどって創造されている。これが人間の尊厳です。神にかたどられて創造されたという人間の尊厳が、差別や戦争によって隠されようとしています。それを創造の時のように明らかにすること、それが差別からの解放ではないでしょうか。

 

 神ご自身はご自分にかたどって人を創造することによって、差別からの解放のご意志を最初から明らかにしておられます。わたしたちも、神のこの御心に従いましょう。

 

 祈り:神さま、あなたは、あなたご自身にかたどって、わたしたちを創造してくださいました。わたしたちの隣人を創造してくださいました。ところがわたしたちはこの隣人の尊厳を踏みにじってしまっています。神さま、差別から解放するあなたの御心を、わたしたちの心にも宿らせてください。神さま、差別されている友、踏みにじられている友がいます。どうぞ、その友を解放してください。友を差別するわたしたちを解放してください。イエス・キリストによって祈ります。

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